退職後の変化(思考編)

退職

退職後、生活習慣や行動に変化があったのは以前に記した通りである。

退職後の変化(生活習慣編)
晴れて無職となって、数日が経過した。 当たり前だが、平日の真っ昼間であっても自宅にいるような生活である。 出勤時間を過ぎても誰からも咎められることはない。生活は一変した。 時間ができると自堕落な生活になる人は多いらしいが、...
退職後の変化(行動編)
退職後、生活習慣だけではなく行動面にも少し変化があった。 ここでいう生活習慣とは意識せずとも身についたものであり、現在は意識せずにできるものである。或いは生理的なものや自身を取り巻く環境によって、意識するしないにかかわらず半ば強制的に...

変化はそれだけではない。退職後、生活習慣や行動の変化に伴って、少し思うところが増えた。

具体的には、昔の自分が考えていたことを振り返り、今どのように整理すべきかということである。

別段、小難しいことを考えているわけではない。しかし、どこがどう変わったかというのを整理するのが難しいので、とりとめのないまま書き散らすことにする。

思うのは、「時間」と「幸福」についてである。

時間について

時間は有限だ。そのことを強く実感している。

勤めていた頃はただ座っているだけでも給与が振り込まれた。時間を切り売りしているような感覚があった。今の自分の価値は時給に換算していくらなのだと思うと、何か嫌な気分になったのをよく覚えている。

フリーランスになると、与えられた1日、24時間の使い方は自由だ。その時間に対して自分で予定を組み、自らそれを実行する必要がある。何か自分からアクションを起こさないと、一銭も入ってはこない。動いた分だけお金は入るが、動かなければゼロだ。限られた時間はとにかく有効に使わなくては、という気になる。

しかし、時間が有限だというその実感は、何も仕事とお金の関係だけではない。

予定も入れずに無為に過ごしていると、時間がただ流れていくだけなのを感じる。何もしていない状況を意識すると、1秒ずつ自身が老化していき、脳細胞が死滅し、死に向かって進んでいるのを感じ取る。

なので、時間は有効に使わなくてはならない――確かに、その通りだ。そうして出る考えはごくごく一般的であり、つまり何かしていないともったいない、という気になる。

しかし、もったいないというのはどういうことなのだろう、という疑問がよぎる。

限られた時間を有効に使わなければ、何がもったいないというのだろうか。おそらく、時間を有効に使うことで、「自分が今よりも成長できる」などという幻想があるのだろう。言語化するとそういうことなのだと思うが、この幻想はどこか胡散臭いと感じている自分がいる。

昔は何かしていないともったいない、なんてことは考えもしなかった。学生の頃を振り返ると、「役に立つから何かをする」という考えはとても気持ち悪くて、自身の内側からほとばしるwant、enjoyに従ってする何かのほうが本物だという気がしていた。おそらく、今もその気持ちに偽りはない。

しかし、自分も少しは大人になったらしく、「役に立つから何かをする」のもwantやenjoyと結びついた行動であるのならそれで良いだろうし、結果として身についたものが自分のやりたいことの幅を広げてくれる可能性もあるだろう、と思うようになった

ところで、時間は有限だなどと言うけれども、やりたいことがあるのならばそんなグダグダ考えなくても勝手に体が動くものじゃないの? 意識的に動こうとしている時点でそれは別にやりたいことではないのでは? という疑問もあるだろう。

おそらく、グダグダと考えることの根底には、あらゆる物に対する後ろ向きで諦めに似た気持ちが横たわっているのだろう。無論、動けないことの言い訳である。なお、それを言語化してこのように記録し自戒するのも、このブログの役目なのかもしれない。あくまで私自身に対してのみの有効性かもしれないが。

だが、24時間365日、つねに死を前にして自ら突き動かされるような衝動に基づきアグレッシブに行動する、ということだけが本物ではないと感じるようになったのも事実だ。それは過去の自分からすると老いであり諦めであり怠惰であると糾弾されるだろうが、それでも停止することなく、日々何かを成そうとする意志を持ち、実際に何かをすることが大切なのだろうと思う。

いずれにしても、何もしなければ無為に時間を浪費するだけなので、やりたいことがあるならとにかく手を動かそう、という気持ちである。

幸福について

幸福について考えることがある。昔から抱えているテーマの一つだが、仕事を辞めてから、よく考えるようになった。

今の自分は幸せだろうか。少なくとも、勤めていた頃よりは幸福になったような気がする。つまり、自分にとっての幸福とはお金よりも時間なのだろう。仕事を辞める前は本当にそう思えるのかどうか微かに不安ではあったが、ただの杞憂だったようだ。

ただし、それは前職と比較した場合の話であって、今の自分が本当に幸せなのかどうかについては、いつも疑問を持っている。

自分にとっての幸せの定義は、未だによくわからない。

良い学校に入って、良い企業に就職し、家庭を築き、そして子孫へ受け継いでいく。学生の頃、はっきりとそう言わないにしても、こうした「サクセスストーリー」を手に入れることが幸せへのチケットなのだと無意識に思い込んでいる人間はとても多かったように感じていた。そして、そのようなチケットをできるだけ無傷で手に入れることを周りが薦めているようにも感じていた。

そうしたストーリーは確かに幸せなのかもしれないが、では、それを手に入れられない人間は不幸なのだろうか。

私の場合、偏差値偏重主義には興味がなく、就職なんてクソ食らえであり、結婚はおそらくしないまま、自分の代で名字は潰えるだろうと思っていたし、今でもそう思っている。

先のサクセスストーリーによる幸せは、誰かにとっての幸せであるかもしれないが、自分にとっての幸せではないのだろうと、ずっと感じてきた。

あれから月日は流れ、少なくとも誰かのそうした幸せを否定することは無くなった。一方、幸せとはそういう一様なものではないと考える人も少しずつ増えてきたように思う。

しかし、自身における幸せの定義は未だ見つからない。

おそらく、見つかりはしないのだろう。

そして死ぬ頃になってようやく、自分は幸せだったかどうかがわかるのだろう。

その通りなのかもしれないが、生きている間には幸せを実感できないのだとすれば、それはとても悲しいことではないかと思う。ただ、そうすることに対する諦めにも似た感情に、時折支配されることがある。

先に書いたwantやenjoyの根底にあるものは、おそらく「幸せになりたい」という感情なのだろう。それを求めて、私は日々何かを成そうと動くのかもしれない。

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